最初、『ドラゴンクエスト』(以下、ドラクエ)が映画化すると聞いて「正気か!?」と思った。
『ドラクエ』、それも『ドラゴンクエストV 天空の花嫁(以下、DQV)』は映画化と相性が悪いからだ。
もともと『ドラクエ』は主人公などのキャラクター性が薄く、プレイヤーの想像にゆだねられている部分が大きいRPGだ。そこに性格付けしてボイスを入れるだけで「こんなの俺の××じゃない」と、想像と映画での解釈の差で苦しむものとなる。
この記事では、私がそんな映画をどう思って見たのか、どこに意義を見出したのか、ということを書いていきたい。
数ある『ドラクエ』のなかでも、『DQV』を映画化するとなると狂気の沙汰としか思えない。
『DQV』には結婚相手を決めるイベントがあり、その選択で展開が変わる。ビアンカ派とフローラ派がいて、そのどちらも納得できる過程と結末を見せねばならない。キャラクターにもこだわりがあるから、より繊細に描かないといけないし、そこに時間をかけないといけないだろう。
1本で終わる映画で、究極の選択を繊細に描いて、まとめることが可能だろうか。
しかも、一方と結婚して物語が続けば、残された相手を選んだプレイヤーの物語でもなくなる。
私はビアンカと結婚して魔王を倒して「めでたし」で終わる映画なら、楽しめても納得はできない(ビアンカ派の方でもフローラとしか結婚しない映画だと納得できない方もいるだろう)。
とすると、花嫁を決定する直前で映画が終わるか、エンディングが2パターンあって視聴時間によってフローラエンドとビアンカエンドで終わるものか、と考えた。
そこまで考えて映画のタイトルを見ると、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(以下、DQY)。
なるほど。つまり、ゲームを買った少年など「誰かの物語(ユアストーリー)」として描くのであれば、「その人がビアンカを選んだから」みたいな言い訳が効く。
メタ構造を取り入れた話にならば、何とかなるだろう、ということだ。誰が考えたかわからないが、頭がいい。
がぜん、見るのが楽しみになってきた……のだが、いざ封切りされると流れてくる評判は予想より悪かった。初日は賛否両論だったが、Twitterではエライ悪評ばかりが聞こえてくるようになった。
私は内容について語って楽しむのは見た人の権利で、ネタバレは自衛すべきと考えている。よってSNSを抑え気味に使っていた(当然、この記事も感想文だからこの後で怒涛のネタバレが入る)のだが……それでも「メタ構造があったんだな」「オチが評判悪いらしい」などの情報はガンガン入ってきた。
とはいえ、『DQV』の映画化を決定した時点で、根本のスクエニにセンスがない(究極の上から目線)。期待度を抑えて警戒していけば、事故にもあうまい。
そう思って映画を見に行くと……開始から主人公の名前がリュカであると知り、思いがけずテンションが上がる。
懐かしい。リュカとは小説版『DQV』の主人公の名前だから、このゲームのプレイヤーはDQが好きであることもわかる。
(小説版は独自の良さがあってファンを獲得していた。私は特に『ドラゴンクエストIII』が好きで、今でも小説を残して持っている)
しかし、その先はきつかった。
映画を見るとき、私が最初にやるのはその映画の楽しみ方をとらえる調整作業だ。
ギャグ映画だとわかれば、感覚をそこに調整し、キャラがいつ死んで復活しても「あり」と、楽しめる。
最初に現実的だと感じれば、人の死を重く受け入れたりする準備が整う。が、この調整がぜんぜん上手くいかなかった。
最初にドット絵で描かれるシーン始まり、ちょっと記憶と違って混乱する。
CGはかなり好みだったが、初期はシリアスなのに音楽の使い方に映画としてのリアリティを感じられず、幼少期が終わると今度はギャグ映画レベルに物分かりが良い主人公に困惑する。楽しみ方が定まらなくて、本当につらかった。
▲メタルスライムの描写は良かったけど。
細かい設定で言うと「これは怒る人いるだろうな」という状況も続き、「細かい部分を再現する気は一切ない」と諦めるに至った。
この期間は、映像的な面白さをのぞいて“無”だったのだが、結婚イベントシーンで一気に幼い頃の思い出がよみがえったとき、やっと楽しみ方が定まった。
結婚イベントは文句なく良かった。“私”を、“僕”だった時代に一気に引き戻す力を持っていた。
僕は何度もプレイした『DQV』人生で、フローラとしか結婚したことがない。それほどフローラに思い入れがある。
結婚イベントのとき、ゲームに入れ込みすぎた僕は誰とも結婚したくないと思っていた。
ビアンカは病弱なダンカンおじさんの介護をしないといけないから、冒険に連れ出したらダンカンおじさんが亡くなってしまうかもしれない。それは嫌だ。
一方、フローラは箱入り娘で冒険など絶対にできないだろうし、ルドマン家の跡取りをそんな危険にさらすのは良くない。
だから、ゲマを倒した後に結婚するような選択肢が欲しくて、それが選べなくてがっかりしていた。
そう思っていたけども、いざフローラと冒険してみると戦えなくても(レベルが低くても)“ベホイミ”で役立ってくれる。旅についていけるという彼女の主張は、根拠のないものではなかった。
そこで「きみは、しっかりものなんだね」と思えて、「ごめん」と心の中で謝った。
冒険を通じて、箱入りだけど背伸びして親に少し反抗する健気さがあって、実はしっかりもので……というフローラ像ができて、フローラ抜きの『DQV』などありえない、と思えるまでになっていた。
『DQY』でのフローラは、そういった理想像を多少は具現化してくれていた。
とくに主人公が初めてフローラと触れ合って浮かれ(という演出で)、勘違いしてしまっている様子を察知して、自ら身を引くシーンなど最高。
「なんでビアンカ選ばなかったの?」と聞かれたら、「そりゃ、フローラがかわいくて健気で、思いやりがあるところに惹かれたからさ」と胸を張って答えたくなる良さがある。これだけで映画の存在を肯定できる。
その後、主人公はビアンカを選んだところで、やっと映画の楽しみ方が定まった。
振り返ってみると、学校の仲間はビアンカを選んだし、後の世になるとTV番組ですら「ビアンカを選んで当然」みたいな空気を出していた気がする。販促物でもビアンカと結婚する前提でイラストが描かれていたりした。
それに対して僕は疎外感を覚えていて、映画でもビアンカと結婚した後の物語は一歩引いてみるようになった。
▲さんざんフローラを推しているけど、僕自身ビアンカが嫌いなわけじゃない。あと、映画版ビアンカも魅力的。というか、結婚のあたりの流れは100点。
ビアンカと結婚後、完全に主人公と僕は違うものになった。一連の流れとして映画を追うよりも、各シーンの中から良いところをピックアップして、自分の記憶にひたるものとなった。
文句なしに良かったのは、悪役であるゲマの描き方だろうか。CGの気持ち悪さもいいし、だんだんとあくどさと力が積み重ねられていく描写も、声も良かった。これほど憎く描写されているゲマが見られてよかった。
妖精の砂のシーンは好きだし、息子が助けてくれるシーンもよかった。プレイヤーが勇者ではないという驚きも追体験できたと思う。
アルスという名前、そしてラスボスのデザインに『ドラゴンクエスト ロトの紋章』を思い出し、『月刊少年ガンガン』を買っていたことから『電撃ドクターモアイくん』まで、ドラクエと関係ない周辺のことまで思い出していた。
すべてが懐かしい。
そして、期待していたよりも映画も盛り上がり始めて楽しくなってきた……そういったところで問題のラストシーンが訪れる。
そのラストは最悪だらけだった。
伏線が有効に機能していなくて唐突すぎたし、突然しゃべり始めるスライムも最低最悪だし、主人公の剣が届かずにアンチウィルスソフトがラスボスを倒すのも嫌だし、「実はVRゲームでした」というオチはいいけど、そのほかは本当に良くなかった。
あ、「2周目はフローラ」という感じのプレイヤーがフローラに拒絶される仕掛けは好きというか、ビアンカと結婚して魔王を倒してハッピーエンドになったら「いつものビアンカ優遇だった」で終わってしまうので(意地が悪いことに)僕にとっては重要なのだが、「これは、フローラ原理主義の人間以外が気持ちよく受け入れられるのか!?」と思ってしまった。
しかし、それでも「ゲームなんて虚無だ」とラスボスが語り、主人公が反論した瞬間、僕は懐かしくて涙が出て、すべてを許した。
思えば昔、ゲームにハマっているときほど母・祖母が似たようなことを言っていて、僕は「そんなことない!」と言い返していた。その記憶が瞬時によみがえった。
初代『ドラゴンクエスト』が初めてハマったゲームで、久美沙織さんの小説で細かい字を読むようになったのを思い出し、敵の消え方でアニメ版『ドラクエ』である『アベルの伝説』の面影を見て、終盤に『ロトの紋章』を思い出し……エンディングでは完全にゲームを遊んでいた昔に戻れた。
最後の問答はあまりにも古臭い。けど、こんな古臭い問答があって、今の自分がある。懐かしさがあふれまくってしまった。
過去にゲームがバカにされまくっていたこと、今の時代にこんなことを言うやつがいたら「馬鹿じゃないか」と一蹴される時代の変化を思い、あらためて「良かった」と思った。
おそらく、この作品を監修した堀井雄二さんも、そういった感慨の元にこの脚本を許可したのではないだろうか。
同時に、ゲーム老人に向けたオチを作ったところで「堀井さんもそれを許す時期か、お疲れさま」とも思い、映画を見ている間に『ドラクエ』プレイヤーであった僕の人生の総括が終わった。この映画は、『ドラクエ』プレイヤーであった僕と向き合う時間をつくってくれるものだった。
そして、次に今と未来のことを考えさせてくれた。
今、「ゲームをやっても意味ない」という説の無力さをみんな知っている。今ゲームを遊んでいない大人だって、過去に『ドラクエ』や『ポケモン』にハマったことを無意味だったと思う人は少ないだろう。
ところが、現実にはいまだ似たような会話が繰り返されている。
ゲーム体験には意味がある。しかし、例えば「オンラインゲーム・ガチャに課金する意味なんてあるの?」などの言葉が今でも話題になる。我々は体験に意味があることを認めたはずなのに、新しいものを受け入れられず同じことを繰り返すのだ。
そして、VRゲームが普及しているであろう『DQY』の世界においても、「VRゲームやるなんて現実逃避でしかない」と言いに来るアホがいる。
おそらく監督も堀井さんも、ここまで考えていないだろうと思うが、ゲーム体験の受容について不寛容になっていないか……僕は、そんな問いかけをされている気もした。
『DQY』が映画が決して優秀でないことは、わかる。
細かい設定の取りこぼし、音楽の使い方、スライムの使い方、エンディング部分、すべてに不満点がある。僕はゲームの映画化に期待しないから許容度がとても高い方だと思っているが、そんな僕でも「ちょっと」と思うシーンが山ほどある。
この映画は広くネタを入れているが多くが浅く、映画・ゲーム本編にこだわりがあるほどつらいものになるだろう。そういった人には「地雷原を歩いて、無事なら楽しめる」ような映画だ。
ただ、この映画はすべての人にとってクソな映画ではなく、とくに40歳以上のゲームプレイヤーや、ゲームや映画から現在は離れて久しい人なら共感できる部分もあると思っている。監督の山崎貴さんの作品の名を借りて言うなら、『ALWAYS ドラクエの夕日』的な。
それを「誰もが楽しめる」かのように宣伝したスクウェア・エニックスの広報が一番いけない。
価格の暴落で話題になったゲーム『レフトアライブ』も、僕は2,000円のインディーゲームとしてなら楽しめると思っているし、好きな人もいると思う。しかし、それを『フロントミッション』新作として宣伝したら、悲惨なミスマッチを起こす。そんな宣伝のされ方をしている映画が『DQY』ではないか。
フローラ派の中でも屈折しているだろう僕と同じ楽しみ方を、誰もができると思わない。だから、他人には勧めない。
しかし、ドラクエ人生の総括から未来への問いかけまで得られた体験は僕にとっては価値があり、「もっとよくできたのでは?」といったことは別に、映画の存在価値はプラスだ。
僕自身、幼い頃を思い出せて、ゲームやそのほかの作品に対する楽しみ方が少し若返ったようにも感じている。
例えば、映画が終わって最初に始めたのは「どうしたら映画がもっと良くなるか」考えることだった。
ゲレゲレにリボンをつける、無駄に音楽を使わない、仲間になりたそうな目で見させる、ビアンカを石にした理由を語らせる、プログラムに反して行動しているであろうフローラと聖水とウィルスを関連付けられないのか、そもそもゲマを倒したら電源を切って現実に戻るようなエンドで構成しなおしていいのではないか……などなど、ファミコン時代の粗っぽいゲームを遊んだ後、自由帳に改善点を書いていた小学校の自分に戻ったかのように考えられて、楽しんでいる。
僕にとって『DQY』は、フローラをきっちり描いてくれただけで十分価値があり、そのうえでドラゴンクエストプレイヤーであった過去の自分と向き合い、その歴史を改めて思い出し、過去と現在を比較して浸りドラクエ時代を総括する機会を与えるもので、ゲーマー人生の節目となるものだった。
もし、「記憶を消せるとして、お金を払ってもう1回見ますか?」ときかれたら、『DQY』を見る選択をすることだろう。